第一章 ショールームの扉を開けて
彼女に手を引かれるようにして、自動ドアの向こうへ足を踏み入れた。
高い天井から降りそそぐ照明が白く床を照らし、新しい車たちが整然と並んでいる。
――正直、少し息苦しかった。
西田拓也、三十六歳。社会人歴は十数年を超えたが、車に関して言えば初心者同然だった。
ペーパードライバーでさえない。免許は持っているが、必要を感じたことがなく、この歳まで公共交通で事を済ませてきた。
「ほら、拓也。行くわよ」
背中を押す声は、二十五歳の恋人、香織だった。
まだ二十代でありながら、すでに人より落ち着いた雰囲気を持つ。背も高く、パンツスタイルがよく似合う。
「でもなあ……なんか、冷やかしに見られそうで」
「そんなことないわよ。見るだけでも大事。ちゃんと聞くだけでも、買う側の経験値になるでしょう？」
その声音には、年下でありながら母性的ですらある確かさがあった。
拓也は小さく頷き、広いショールームに足を進めた。
第二章 頼りなさと視線
「いらっしゃいませ。本日はいかがなさいましたか？」
すっと現れたのは、紺色のスーツを着こなした営業マンだった。四十代半ばだろうか。柔らかい眼差しには長年この世界にいた余裕が漂う。
「えっと……その……ちょっと見に来ただけ、というか」
拓也がしどろもどろに返す。
営業マンは少しも怪訝な顔をせず、にこやかにうなずいた。
「ありがとうございます。お気軽にどうぞ。ご覧になるのはセダンでしょうか？それともSUVのようなお車にご興味をお持ちで？」
「え？ あ、その……いや……」
拓也の言葉が途切れる。
その横で、香織がすっと前に出た。
「普段は電車通勤なんですけど、週末に二人で出かけたり、少し遠出したりできる車を探していて。あまり大きすぎず、でも高速も安心できるものがいいかなと」
営業マンは頬に笑みを深める。
「なるほど……でしたら、このあたりのミドルサイズがお勧めかもしれませんね。ご覧になりますか？」
香織が軽やかに頷く。その流れに救われるように、拓也もただ頭を下げるしかなかった。
第三章 営業マンの微笑
営業マンは静かに促し、一台の深い青色の車へと二人を案内した。
「こちらが最新モデルのセダンタイプになります。サイズ感は取り回しもしやすく、長距離にも向いております」
拓也は車体を前に首をかしげた。
「へえ……。その……これって、燃費ってどうなんですか？」
思い切って口にしてみたが、自分の質問が拙いものに聞こえて、すぐに後悔した。
営業マンは柔らかく微笑む。
「はい。こちらはガソリンと電気のハイブリッドですので、平均でリッター二十キロ弱走ります。首都圏近郊の使い方でしたら、かなり燃費性能を感じていただけるかと」
「に、二十……すごいのかな、それ」
小声で香織に聞くと、彼女がややあきれたように肩をすくめた。
「十分いいのよ。ガソリン代も馬鹿にならないんだから」
「そ、そうか……」
営業マンは二人のやり取りを邪魔せず、むしろ安心させるように一歩下がって見守っていた。
「もし宜しければ、座席に座ってみませんか？ 実際に車内に身を置いていただくと、雰囲気がより掴めますよ」
促されるまま、拓也は緊張しながら運転席に座り込んだ。
眼前に広がるパネル群。
ハンドル。
――そしてここから始まるかもしれない、新しい自分の生活。
第四章 試乗という門出
「準備が整いましたので、少しだけ試乗してみませんか？」
営業マンの声に、拓也の心臓は少し早鐘を打った。
「僕、運転……あまり慣れてなくて」
その言葉に、香織は手を握り、「大丈夫。私も後ろに乗ってサポートするから」と安心させた。
営業マンは優しい眼差しでうなずいた。
「ゆっくりで構いません。まずは感じてみることが何よりです」
拓也は慎重に車のドアを開け、運転席に座る。香織は助手席に腰を下ろした。
ゆっくりとエンジンをかけ、車は静かに走り出す。
思いのほかスムーズに動くことに少し驚いた拓也。操作はぎこちなかったが、心は少し軽くなった。
「こういうの……意外と楽しいかも」
ぽつり呟くと、香織も微笑んだ。
第五章 数字の壁と彼女の助け舟
ショールームに戻ると、営業マンは見積書を差し出した。
「こちらが本日のお見積となります」
予想はしていたが、数字を見て拓也の顔は曇った。
「こんなに……初めて見ると、何がどう高いかさっぱり」
素直な戸惑いが声に滲む。
香織がすかさずフォローする。
「車本体価格に加えて、諸費用もありますから。税金や自賠責保険、登録手数料など、細かく分かれているの。ここがディーラーの手数料で、ここがオプション料金ね」
「なるほど……」
営業マンは丁寧に項目ごとの説明を続けた。
「お客様が後々、こうした費用に驚かれないよう、最初にしっかり確認していただいています」
拓也は何度も頷きながら、少しずつ理解を深めていった。
第六章 決断の手触り
「でも、やっぱり決めるのは勇気がいる」
拓也はしばし言葉を切った。
「車は一生に何度も買うものじゃないですからね」
香織が柔らかく笑った。
「でも、あなたには私もいる。焦らず、ゆっくり進めましょう」
営業マンは二人を見つめ、言葉を添える。
「何かご不安があれば、いつでもご相談ください。納得されるまでお付き合いいたします」
拓也は深呼吸を一つ。彼女の支えと営業マンの柔らかな言葉に背中を押され、心の扉が少しだけ開いた。
第七章 契約書に映る未来
ショールームの一角、落ち着いた応接スペースで書類が並べられた。
「ここにご署名をお願いいたします」
営業マンが差し出す契約書。
拓也はペンを握る手に少しだけ震えを感じた。
「これで本当に大丈夫なのでしょうか……？」
不安げに尋ねる拓也に、香織は軽く微笑んだ。
「慎重になるのは自然よ。私も全部一緒に確認するから」
営業マンは声を落として付け加えた。
「契約はお客様の生活の一部を支えるものです。何か疑問があれば、どうぞ遠慮なくお申し付けください」
紙と向き合う緊張感の中、拓也は彼女の視線と営業マンの穏やかな態度に支えられ、一字一句に目を走らせた。
第八章 書類の迷宮と晴れやかな終わり
契約後は各種書類の確認と手続きが待っていた。
「これは自動車保険の確認書類です。ご希望であれば、こちらで保険のご案内も可能です」
営業マンの説明は丁寧で、拓也は聞き漏らさぬよう集中する。
香織は細かい数字も見逃さずにチェックを入れ、必要に応じて質問する。
「ほら、こういう細かい部分は任せちゃっていいわよ」
時折、拓也に声をかけて励ます彼女の存在が、何よりも頼もしく感じられた。
「書類は多いですが、慌てずゆっくり進めれば大丈夫です」
そう自分に言い聞かせているようだった。
第九章 納車の日、鍵を手にして
数週間後、晴れ渡る空の下、ついに納車の日が訪れた。
ショールームにて、新しい車の前に立つ拓也。
「このキーが、あなたの新しい生活の始まりです」
営業マンが鍵を手渡す。
拓也はゆっくりとそれを受け取った。
「思ったより、やっぱり実感が湧かないけど……」
声はまだ少し震えていた。
香織が肩に手を置き、そっと言った。
「大丈夫。焦らなくていい。あなたのペースで、これから一緒に走ればいいの」
そうして二人は並んで車のドアを開けた。
ハンドルを握る手が、これまでの不安を押し流し、新しい自分を迎え入れるように少しだけ力強く震えたのだった。
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